ニッポンのお笑い、百年のネタを見る① 横山エンタツ・花菱アチャコ/リーガル千太・万吉

横山エンタツ花菱アチャコ 日本の漫才のはじまり

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 ――今日は、日本のお笑い芸人のネタの中から選んだ、横山エンタツ花菱アチャコの「早慶戦」から始まって、まんじゅう大帝国の「全問正解」まで百本のネタを通して見ていただいた感想を伺い、日本のお笑いにおける漫才・コント・一人芸といったネタが持っている意味合いを話し合ってくださればと思います。よろしくお願いいたします。
犬江 およそ百年間のネタを全体でいうと、日本の近代、現代のお笑いに少し悲観的な意見も僕はもちました。全体の感想から始めるより、一つ一つやっていきましょう。そして最後に積極的なものが浮かび上がれば……。
古丼 その方がいいですね。
犬江 まず横山エンタツ花菱アチャコの「早慶戦」。
古丼 エンタツアチャコというのは、背広姿で舞台上で掛け合いを演じてみせるといういわゆる「漫才」を日本で初めてやった、まさしく近代漫才の祖というべきコンビですが、はじめから完成されたような漫才をやるんです。このあと出てくるダイマル・ラケットやいとし・こいしもそうですが、ひょっとして日本の近代漫才は、完成された形から始まって、さまざまな崩れを見ながら展開したんじゃないか。
犬江 古丼さんが完成された形と言われるのは、二十世紀初頭のアメリカにおけるコメディの完成ということですね。横山エンタツは当時、漫才師や浪曲師、踊り子などを引き連れてアメリカ巡業を半年間ほどやったそうです。巡業そのものは失敗してしまったそうですが、チャップリンの喜劇や、アボット・アンド・コステロの実物なんかを見ることができた。それをエンタツが学んで自分のものにする過程には、アメリカのコメディを日本のお笑いに翻訳する意識もあったと思います。
古丼 立派な翻訳ですね。
犬江 二人の人間のやりとりによって笑わせるというコメディのやり方。同時に、野球に材をとった作品でもありますね。日本において野球というスポーツがいかに親しまれてきたかを伺い知ることができます。
古丼 横山エンタツは翻訳で自分を鍛え上げた人ですが、この「早慶戦」はいわゆる日本の漫才のはじまりでしょう。日本で漫才を創始するにあたって、野球以上にふさわしい題材はなかった。つまり必然性があったわけです。
 ビートたけしが、アボット・アンド・コステロのコメディに「メジャーリーグ」というのがあったことや、「早慶戦」を書いた漫才作家の秋田實が英語が堪能だったことを挙げて、エンタツアチャコの漫才はアメリカのコメディの真似にすぎなかったというような話をしていましたが、僕は違うと思うな。例えばAmericaという単語を日本語に置き換えても「日本」とはならない。翻訳の困難さはそういうところにあると思います。
犬江 構造であるとか形式を、日本人に親しみやすいものとして翻訳し、取り入れるということですね。片方がボケて片方がツッコむという形式も、エンタツアチャコの時点で既に完成されています。
 
リーガル千太・万吉 東京における漫才

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犬江 上方漫才のエンタツアチャコの成功を間近で見たリーガル千太・万吉は、東京漫才の祖とされています。そういう時代的な背景をふまえた上で論じることも必要かもしれませんが、純粋なおもしろさということでいったら、この「すてきな友情」はエンタツアチャコよりも随分劣ると僕は思いました。
古丼 やはり言語の問題があるのでしょう。ナイツの塙宣之の言葉を借りれば、漫才というのは関西弁のための演芸であると言えるわけで、千太・万吉の場合、東京弁での二人のやりとりに現実味というか、切実さがまったくと言っていいほど感じられない。そこがおもしろいと感じられるかどうかの境目だと思うんです。やりとりのテンポにしても、関西弁と東京弁とではだいぶ差がある。東京の言葉を使ったテンポの早い漫才が出てくるのは、もう少しあとの時代になってからです。
犬江 2002年のM-1グランプリおぎやはぎの漫才を見た審査員の立川談志が、千太・万吉のようだと評していました。
古丼 スタイルそのものではなく、おそらくは漫才のテンポについて言ったのではないでしょうか。テンポが速い関西弁の漫才が主流になりつつあった二〇〇〇年代初頭にあって、マイペースなおぎやはぎ東京弁の漫才は談志にとって快くもあり、懐かしさを感じさせるものだったのじゃないか。
犬江 そういう意味では、千太・万吉の頃から、東京の漫才師が発展するための道は奇しくも示されていたという見方もできますね。
 
 
 
引用・参考文献
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る(新潮文庫)』(新潮社,2018年)
NHK BSプレミアム『たけしの“これがホントのニッポン芸能史”』(2015年)
塙宣之(ナイツ)『関東芸人はなぜM-1で勝てないのか?【第1回】』(集英社新書プラスインタビュー,2018年)
朝日放送テレビM-1グランプリ2002』(2002年)

ムーンライダーズ「9月の海はクラゲの海」と姫乃たま『パノラマ街道まっしぐら』の話

〈いつか現れる、俺の絵を感じ取れる人間のために描いているのだ。やつらは俺の絵から立ち昇る激しい〝憎悪〟とその造り出す〝地獄〟に怯えるだろう。そうして人の心に恐れを抱きながら、怯えた一生を暮らす事になるだろう。俺はただそれが嬉しくて〝地獄絵〟を描くのだ。俺の絵は糾弾するために存在する、歌うために描かれたのではない。〉――笙野頼子「極楽」

明日つづきを書く、と宣言されたはずのその金曜は仕事を終えたあと、会社の同期四人でおれの家に集まって宅飲みをすることになり、飲み食いしながら日を跨いで翌土曜の朝方まで駄弁った挙句ようやく解散して眠りに就いたのが六時頃で、結局それから昼夜逆転に近い二日間をだらだらと過ごして今に至る。とんだ十連休のスタートになってしまった。この二日間はだいたいというかほとんど家から一歩も出ず、意味のある行動といえば母親に電話して今回の連休は実家に帰らないとを伝えたことぐらいで、あとの時間は音楽を聴くか録画していたテレビ番組を見るか、本を読むかネットを見るかしていた。Spotify平井堅が聴けるようになったとかキャンディーズ太田裕美も聴けるようになったとかそんなふうに脈絡もなくディグっている中で、以前はなかったムーンライダーズのアルバムがいくつかSpotifyに追加されていることに気がついた。

ムーンライダーズといえば高校の最後か大学に入りたての頃に『カメラ=万年筆』を聴いたのが出会いで、その他は鈴木慶一ムーンライダース名義の『火の玉ロック』を聴いて「スカンピン」とか「あの娘のラブレター」がいいなーと思うぐらいなものだったが、曽我部恵一とスカートの澤部渡の対談記事を読むなどするうちにいつか真面目に聴かなければならない存在として気にはなっていた。

mikiki.tokyo.jp

まず『DON'T TRUST OVER THIRTY』というタイトルがいい。元ネタがあるのかもしれない。音の感じでいうと自分の乏しい知識ではJapanの『Tin Drum』っぽいというのが関の山だ。歌詞は対談で澤部渡が言っていたような、卑屈さとともにあるロマン、を感じられるのがよいと思った。

冬の海まで車をとばして

24時間 砂を食べていたい

―― DON’T TRUST ANYONE OVER 30/ムーンライダーズ

アルバム『DON'T TRUST OVER THIRTY』の中では「9月の海はクラゲの海」がいちばん気に入った。ニューウェーブっぽい?Japanっぽい?音像の中で鳴るギターの音と、これはビギナー感丸出しではあるがサビのメロディがキャッチーなのが好みだ。ゆるめるモ!によるカバーもよかった。

Everything is nothing

Everything is nothing

Everything is nothing

9月の海はクラゲの海

―― 9月の海はクラゲの海ムーンライダーズ

その流れで澤部渡の『NICE POP RADIO』の最新回をRadikoで聴くと「レコードで振り返る平成」という企画をやっていて、PRINCESS PRINCESSの「diamonds」のよさを改めて知る、台風クラブの「火の玉ロック」に対する〝平成最後の大名曲〟という触書きに激しく首肯するなどして聴いていたのだが、その中で僕とジョルジュの「恋のすゝめ」が紹介されていた。僕とジョルジュといえば地下アイドルを称する姫乃たまと、カメラ=万年筆(このバンド名は上記ムーンライダーズのアルバムが元ネタか)の佐藤優介が組んだユニットであると曖昧に認識していて、初めてYouTubeで「二月生まれ」という曲のPVを見たときに、なんていい曲なんだ!と驚いた記憶がある。ちなみにこのPVは岡村靖幸の「だいすき」のPVのあからさますぎるパロディだ。

僕とジョルジュの楽曲をいくつか聴いているうちに、最近姫乃たまのソロアルバムが出たばかりであることを思い出してSpotifyを探してみると見つかった。『パノラマ街道まっしぐら』というこのアルバムは、カーネーション直枝政広をはじめ君島大空やミツメの川辺素などが楽曲提供しているというだけですごいが、いざ聴いてみると内容はもっとすごい。「ねじれたアイドルポップス、EDM、AOR、ポップ、現代音楽、ビートリー、ネオアコ、テクノ、ヨットロック、チャクラのカバーなど、全てを内包した傑作完成。」とVictorの公式サイトにある通り種々雑多な楽曲が収録されており、一回通り聴いただけでは全貌を掴み難いというのが正直な感想だ。

しかしなにか心惹かれるものがあり、結局ディスクユニオンの通販サイトでCDを(僕とジョルジュ「二月生まれ」の7インチとともに)買ってしまった。Spotifyで聴けるのにCDを買うというのは矛盾に満ち満ちた行為のようでもあるが、サブスクで聴くのとCDあるいはレコードといった現物ありきで聴くのとでは聴くときの集中力というか没入具合が異なるという実感がある。とはいえ興味のある音楽のCDをぜんぶ買うわけにはいかないからSpotifyYouTubeで済ませることも多いのが実情で、よっぽど好きなアーティストの作品でもない限り現物を買う機会は少ない。このタイミングでの注文であるからには連休明けの発送になりそうな予感もあるので、忘れた頃に届いて新鮮な気持ちで聴ければいいなと思った。

音楽の話ばかりになってしまったが本当はこの二日間、金属バットとAマッソが初出演した「アメトーーク!」を見るなどもしていたのだがそれについて書く気分ではなくなった。明日つづきを、などと書くと自分の首を絞めるばかりになることをそろそろ学習してきたので気が向いたときに書く。

台風クラブの『火の玉ロック』を聴いた話

 ひとつの恐怖の時代を生きたフランスの哲学者の回想によれば、人間みなが遅すぎる救助をまちこがれている恐怖の時代には、誰かひとり遥かな救いをもとめて叫び声をあげる時、それを聞く者はみな、その叫びが自分自身の声でなかったかと、わが耳を疑うということだ。――大江健三郎『叫び声』

今日、台風クラブの7インチシングル『火の玉ロック』を聴いた。広島のSTEREO RECORDSという店の通販サイトで注文していたやつが、受け取り場所に指定していたセブンイレブンに届いたというメールを、仕事の昼休憩時間に受信・確認し、それから午後の業務を終えて定時過ぎに職場を出て受け取りに行った。セブンイレブンファミリーマートクロネコヤマトの荷物を受け取ることができるサービスの存在を知ったのはごく最近だから利用するのは今回が初めてで、これも昼休憩中に荷物の受け取り方法を調べてみると、ローソンにおけるLoppiファミリーマートにおけるFamiポート的な端末がセブンイレブンにはなく、店員が初心者の場合は受け取り手続きに難渋するおそれありといった類の情報が複数見つかったので不安になった。案の定、若い男の店員は最初おれが提示した12桁の送り状番号をレジの機械に入力したあとで「あっ、13桁なんで、もう1桁足りないですね」などと言っていたが、問答を繰り返すうちにどうにか受け取ることができた。もう二度とセブンイレブンクロネコヤマトの荷物は受け取らない。

表題曲の「火の玉ロック」は既にロスレス音源を買ってあったしYouTubeでPVも公開されているしSpotifyでも聴けるからもう何度も聴いていたが、本物のレコードに針を落として聴くのは格別だ。といっても音源そのものはレコードだろうがサブスクリプションだろうが同じなのだから、音質云々を除いたそういう感慨はおれの思い込みにすぎないのかもしれない。B面(文字通り!)に収録されている「遠足」という曲はGreen Dayの「Basket Case」のカバーで、しかも歌詞はボーカルの石塚淳が書いたオリジナルの日本語詞だ。

分かりかけた気分が/白みかけた場面で /またひとつ星が消えてった/頬なでる大袈裟な感傷 ――台風クラブ「遠足」

この7インチシングルに入っている二曲は、ともに消えていった星たちのことを歌った歌だ。台風クラブはライブで「解散してしまった大好きなバンドたちと、いつか解散してしまうおれらに贈る歌です」という石塚淳のMCのあとで「火の玉ロック」を演奏する、とTwitterで見て知った。台風クラブのライブをおれはまだ見たことがない。

ロックバンドのことを歌うロックバンドがおれは大好きだ。小説とはなにか、と考えつづけている小説家のことが好きなように。

STEREO RECORDSでは台風クラブの他にザ・ハイロウズの『バームクーヘン』のアナログ盤も購入していたのだったがもう書く気力がない。とても眠い。セブンイレブンのことを書きすぎたのがよくなかったか、もしくはこの文章を書く前、河合あすなのAVを物色している最中に期せずサンプル動画で射精してしまったのがよくなかったのか。巻頭に置いた大江健三郎にもついに触れられなかった。明日つづきを書こうと思う。