ニッポンのお笑い、百年のネタを見る② 中田ダイマル・ラケット/夢路いとし・喜味こいし

中田ダイマル・ラケット 辿り着いた王道

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犬江 中田ダイマル・ラケットの「僕の健康法」には、長年兄弟で漫才をやってきて、叩き上げた漫才師としての自信を感じますね。漫才としての完成度や深みという点では、こうしたものに日本の漫才師の底力があると思うんです。会話の間やテンポの絶妙さは言うまでもなく、きみ、ぼく、という他称自称の自然さからも、いかにも漫才師の王道という雰囲気を感じます。
古丼 見た目について言えば、コンビの片方が痩せていてもう片方が太っている、ある種の凸凹な立ち姿なんかもそう感じる所以のひとつでしょう。
 初期のダイマル・ラケットは、エンタツアチャコや同時期のいとし・こいしとはちょっと毛色が違って、奇抜な設定や動きを活かした漫才であるとか、時には舞台上でボクシングの格好をして漫才をやったりなんかもしていたそうです。ところがダイマルの身体が持病の投薬治療のために太ってしまってからは、それを崩して話芸が中心の漫才をやり始めた。そのような変遷の末に辿り着いた形式であることを踏まえてみるとよリおもしろい。
犬江 漫才の途中でダイマルが軽やかにやってみせているノリツッコミにしても、あるいはキャリアの初期に培った身のこなしのよさに端を発するものかもしれません。
 僕がこの漫才で好きなところは、互いが互いの言葉に笑ってしまっているところなんです。漫才の最中に、本筋とは無関係な箇所で笑ってしまうというのは、基本的な漫才の作法からいうと当然ご法度なんでしょうけれども、それが許されてしまうどころか、むしろおもしろさというベクトルにおいてプラスに働く稀有な芸人というのが、時たま存在するわけですね。
古丼 この百組の中でいうと、アンタッチャブルとか。
犬江 まさにおっしゃる通りです。そして両方のコンビに共通しているのは、かれらがいかにも楽しそうに漫才をやっているということです。実際にかれらが漫才を楽しんでいるかということはまた別の話としても、今回の選集に入った中で、どれほど楽しそうにネタをやっているかという視座でみたときに、アンタッチャブルを除けばダイマル・ラケットが一番なんじゃないか。
古丼 ラケットが「あれは飲みにくいね」と言ったときのダイマルの破顔、あれが最上の瞬間でしょう。どこまでが台本上に規定されたやりとりか、本当のところは判然としないけれども、ボケとツッコミの洗練されたやりとりの間に、コンビの一方がアドリブめいたアレンジをひとつ加える。もう一方がそれを顔に出しておもしろがる。相方のこういう性質、姿勢を互いに知悉している漫才師にこそできる高度なネタであると思いました。
 
夢路いとし・喜味こいし 近代漫才の完成

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犬江 夢路いとし・喜味こいしの「わたしの好物」では、ボケとツッコミの二人のやりとり、ちょっとした嘱目に周りがおのずから耳を傾けるという、高度な漫才の語り口がここにありますね。それで、現代の漫才師ではなかなか表現しにくいことを見事に表現しているんですよ。
古丼 いとし・こいしは、ダイマル・ラケットと同じ時期に、かなり完成された漫才をやっていて、日本語としても非常に洗練されているんです。今回選ばれた「わたしの好物」は最晩年の爛熟期のステージなんですが、ひとつひとつの言葉に一切の無駄や淀みがない。まずそのことに驚きました。
犬江 少しイレギュラーなところから話を始めると、冒頭でいとしが「おびしめ」と言うべきところを「おしめ」と言い間違えています。こいしがツッコんでいないところから判断するに、これは台本ではなく単なるミスと思われますが、僕はこれをミスとして認識する以前に、いとしの他のボケに対して笑うのと同じ心持で笑ってしまった。つまりしくじった、やらかしたという空気がまったく出ていないんですね。周囲が気を遣っているという様子もない。これは齢を重ねた漫才師でなければできないことです。
古丼 そんなことをやってのける芸人は、いくら齢を重ねようとそうそうはいませんよ。いとし・こいしくらいじゃないかしら。ミスによって生じる淀みを技術でカバーするのとは根本的に異なり、そもそもミスを淀みと認識させず、芸の一環として半ば無意識的にネタに内包してしまうような、そういう境地に到った例というのは。
犬江 その冒頭以降は、最初に古丼さんがおっしゃった通り一切の滞りなく、流れるように見事なやりとりが続いていきます。
古丼 日本のお笑いの性格というものを考えるときに、会話の自然さというのがひとつあります。これは漫才だろうがコントだろうが同じことでね。ダイマル・ラケットもそうですが、いとし・こいしの漫才は会話としてとても自然なんですよ。しかし集中して見ると、もちろん緻密に組み上げられてあることがよくわかる。何十年も舞台の上でやってきたネタなんだから当然のことですが、それをフラットな状態で見たとき、いかにもたった今初めて交された会話であるかのような印象を見る者に与える。それがかれらの技術なんです。
犬江 こいしのツッコミは声の調子や身振り手振りひとつとってみても、心の底からいとしのボケに呆れているという感じが非常にしますし、いとしのボケにもそれに負けないダイナミズムがある。まさに近代漫才の完成形とも言うべき見事な漫才です。
古丼 また今回選ばれたのは偶然でしょうけれども、ダイマル・ラケットの漫才はボケがネタの主導であるのに対して、いとし・こいしの漫才は、特に後半はツッコミが主導になっていて、ともに漫才を学ぶ上で現代でも充分通用し得る、それぞれの形式の漫才の手本という感じもしますね。
 
 
――『ニッポンのお笑い、百年のネタを見る③ コント55号ザ・ドリフターズ伊東四朗小松政夫』(近日公開予定)に続く――
 
引用・参考文献
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る(新潮文庫)』(新潮社,2018年)
 
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